福島には原発が必要だった(補足)

前回のエントリ(福島には原発が必要だった)について、たくさんのコメントをいただきましたが個別に返事するのが難しいので、補足させていただきます。

まず初めに、ここは公的機関でも何でもないただの個人のブログなので、あれは「私の」意見です。福島県民の意見を代表するつもりは全くありません。「県は」という時、一般的に県の機関決定を指すものだと思っていたので、それを「福島県民みんな」のことと受け取られてしまったことに戸惑っています。私の書き方が悪かったかもしれません。

無知だ、幼稚だ、何も分かってない。
Exactly(そのとおりでございます)。
私は無知を恥じるつもりはありません。堂々と知らない!って言います。
本当に恥ずかしいことは、知ろうとしない、学ぼうとしないことだと思うからです。

何もない家で生まれて、さっさと出て行けと言われながら育ったので、私は福島について人よりちょっと知らないことが多いです。例えば、5年前まで相馬野馬追を知らなかった。相馬出身の後輩が野馬追があるから休みをとりたいと言うのに対して「のまおいってなーに?」と聞いたら、
「えェ〜〜ッ!?野馬追を知らねェんすかァ〜!?マジすかァ〜!!福島に住んでるのに!?
 うわ〜〜……」
とショックを受けていたので覚えました。

当該記事の中で明記するべきだったと反省しているんですが、事故が起こってから、私はこれまで原発に関して地元でどのように報道されていたのか知りたかったので、古い新聞を引っ張り出しました。でも、何しろ膨大な量だし、どう調べていいかも分からなかったので引っ掻き回して目に付くものを手当たり次第に拾っていきました。そしてそれを切り貼りしながらあの文章を書いたんです。

最終的に参照したのは、福島民報の以下の記事です。

2002年6月28日(前知事の時代)
立地町、国、東電の三者の考えが一致し、中間に位置する県と反発する構図は気になります

2010年8月7日
プルサーマル受け入れ 県の判断を歓迎 立地4町コメント

2010年8月8日
プルサーマルを推進するため、国は交付金制度を設けている。しかし、交付額は大幅に減額された。60億円が交付された「核燃料サイクル交付金」は平成20年度で打ち切りに。/本県では14年の事前了解の「白紙撤回」で実施が先送りされ、その間に交付金が減ってしまったことに立地町は不満を抱く。/財政悪化で県内唯一の早期健全化団体となった双葉町交付金を福祉・教育関連事業に充当し、他の財源を債務返済に回す青写真を描く。町幹部は「県には、できるだけ早く申請してほしい。住民サービス向上のためにも、ぜひ必要だ」と語気を強める。/計画が具体化すれば建設工事関連の雇用が増え、立地予定地の双葉町は固定資産税などの税収が増える。

2010年9月10日
原子力安全確保の在り方に関する検討会は9日、東京都の経済産業省で開かれ、原発立地県の代表として佐藤雄平知事が意見を述べ、同省からの原子力安全・保安院の分離の必要性などを訴えた。

2010年10月19日
浪江町の設備業者は東電からの工事発注が地元経済活性化の鍵を握っていると指摘した上で、「公共事業が減り景気回復に明るさは見えない。7、8号機の増設に理解がほしい。それが県政への唯一の願いだ」と打ち明けた。

2011年2月24日
脱原発福島ネットワークなどの市民団体は23日、福島第一原子力発電所1号機の40年を超える運転に反対し、情報公開と県民説明会の開催を求める申し入れ書を東京電力に提出した。


拾い方が恣意的だと言われたら謝るしかないのですが、私なりの「地元報道の要約」でした。だから、事実と違う!と言われると、ちょっと困ってしまいます。

反対運動については、探せばもっとあるはずなんですが「要望書を提出した」というものしか見つけられなかったので、「一部の反対運動もありましたが」と書きました。ずっと前から反対していた人たちの声が、それまで私には届いていなかったんです(これは責めたいのではなく、ただ、届いていないという事実を伝えたいだけです)。コメントで触れてくださった方もいましたが、どんな反対運動があり、それがどのように押し切られてしまったのか、これからじっくり調べようと思います。

こういった新聞記事を読むと、なぜ町長たちが原発を受け入れようとしたか理解できました。タイトルに違和感があるという指摘をいただきましたが、「原発が必要だった」というのは、自分自身を含め、原発を肯定的に捉えていた人に対しての、受容であり、慰めであり、言い訳であり、懺悔であり決別なんです。
だからタイトルは変えません。

次に、私は熱心に原発を推進し活動していた一人ではなく、心の中で勝手に賛成しただけだということをはっきりさせておきます。多くのお叱りを受けて、なんだか私が最終決定のハンコを押したかのような気分になってしまったのですが…。放射性廃棄物のワークショップに参加した経緯について誰も望まないかもしれませんが少し自分語りします。

とある会の理事長と、つきあい始めた彼氏がちょっとした知り合いで、庭のザクロをお裾分けしてもらうような関係でした。理事長は時々、子どもたちへの科学教室のような講座を開いていました。そこで私は「ふねはどうして うくのかな?」という紙芝居で女の子役を担当したり、ポンポン船をつくるための発泡スチロールを切ったりするお手伝いをしていました。

もちろんバイト代は出ませんでしたが、その帰りに、理事長はたくさん科学の話をしてくれました。金属の分子構造なんかについて教えてもらったり、炭、エネルギー、核融合、製鉄…様々な分野の勉強会にも呼んでくれました。製鉄の様子は別のブログに載せてました。

それまで私は「親の金で大学行ったヤツみんな死ね!」と思っていた暗い人間だったので、大学の先生や研究所の方のお話を聞くのは夢みたいに楽しい時間でした。理事長と出会って初めて、人は何歳になっても学ぶことができる、ということに気付きました。世界が開かれたような気がしました。放射性廃棄物のワークショップも、「こういうのあるけど、来る?」「行く行く!」と二つ返事で参加したんです。理事長とはその後、喧嘩別れのようになってしまって連絡をとっていませんでした。

今この状況を見て、理事長だったら何て言うんだろう。
事故が起こってから、ずっとずっと考えています。
でも話を聞くことはできません。
彼は震災が起こる少し前に、脳出血で倒れたところを大学の駐車場で発見されたのでした。

私と知り合うより以前、理事長は自分で買ったガイガーカウンターを持って原発の見学に行ったそうです。昨日、彼氏に教えてもらいました。そのとき針は振れなかったそうです。
ガイガーカウンター借りに行きたいね。」
「うん、自分で測ってみたいよね。」
「でも、無理だね。」
「…そうだね。」

私が、いいことの何ひとつなかった、他に行くあてがないからという理由だけで住んでいたこのふるさと福島を好きになったのは、理事長や彼氏にくっついてあちこち回り、いろんな人に会って話を聞いたからなのに、片方は入院してるし、もう片方は「俺べつに郷土愛とかないんだよなー」とか言ってるし、山に住む親の家(実家ではない)に行けば、父が「くよくよしたって仕方ない」と田んぼの手入れをしてるし、街へ出れば品揃えが悪いだけで日常は戻りつつあるし、福島の子どもたちを守ろう!と叫んだって、私には守るべき子どもがいない。予定もない。

もう何をどうしたらいいのか、サッパリです。
私にできるのは、その時、その時で、思ったことを表現するだけ。

賛成だったのに問題が起これば反対だなんて、思慮が浅い。そんなコメントもありました。
でも、気持ちは変わるんです。
大嫌いな福島を好きになったこと、恨んでいた両親を今は尊敬していること、原発は賛成だったけど今は反対していること。
安易だと笑われたっていい。変わることは、良いことだ。
それに変わった後だって、過去の気持ちを無かったことにしたくない。嘘をつきたくない。
過去を受け入れて、分析して、明日につなげたい。
自分の気持ちを正直に出していきたい。
これからも、そうするつもりです。

たくさんのコメントやTwitterでのリプライ、ありがとうございました。
様々なご意見、それらの言葉が頭の中でぐるぐる回っています。何度も読み返したいと思います。